大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京高等裁判所 昭和46年(う)2990号 判決 1972年11月30日

被告人 楠本正弘

主文

原判決を破棄する。

被告人を禁錮六月に処する。

理由

本件控訴の趣意は弁護人三野研太郎提出の控訴趣意書並びに控訴趣意補充書に記載されたとおりであるからここにこれを引用し、これに対し次のように判断する。

控訴趣意第一(原判決には刑事訴訟法第三百七十八条第四号前段の所謂理由不備の違法がある、との主張)について。

所論は、要するに、

(一)  原判決は昭和四十六年十月二日横浜地方裁判所第六刑事部(控訴趣意中、第十二刑事部とあるは第六刑事部第十二係の誤記と思われる。)裁判官赤木薫により宣告されたが、同裁判官が被告人に告知したのは、(イ)判決書記載と同一の主文並びに起訴状と同一の趣旨の理由(罪となるべき事実及び罰条)及び取調べた証拠であつて、弁護人主張の緊急避難の主張については何等言及しなかつた。そこで弁護人が之を質したところ、同裁判官は(ロ)「公訴事実の認定により弁護人の主張を排斥した趣旨である」旨述べた。しかし、被告人にとつては、判決は告知された内容が全てであり、それは結局(イ)に止まると考える。従つて、原判決はその宣告に当り緊急避難の主張については判断を遺脱したものというべく、同判決にはこの点に於て理由不備の違法がある。

(二)  原判決書には、右に反し、右弁護人の主張に対する判断が示されているから、これにより原判決宣告に当つての右違法は治癒されたとする見解があるかもしれない。しかし、右判決文記載の判断は「判示認定の状況においては、対向車が中央部に進出することは十分予想出来る」という極めて抽象的なものであり、到底被告人をして納得せしめ得る理由とはいえない。何となれば、被告人が対向する小型トラツクを前方三〇―四〇メートルの地点に認めた時、小型トラツクの進路左側には路端から食み出し駐車している自転車があり、同トラツクの運転者もまた同自転車並びに被告人車を認めたものと思われ、一旦停止するように徐行したにも拘らず、突然態度を変え被告人車の前方を擦り抜けようとして道路中央線を越えるに至つたのである。右の場合、特に、当時の被告人車及び小型トラツクの速度が時速約三〇―四〇キロメートルであつたこと及び両車間の距離が前記の如く三〇―四〇メートルであることに鑑みると、いずれの車両も対向車線に進入することは極めて危険な行為であり、通常そのような行動に出ることはないのであるから、原判決としては「対向車線に進入してくることを予測するのが当然である」と判示する以上その根拠を示すのが当然である。然るに、原判決はこの点について何等根拠を示していない。原判決には理由不備の違法がある。というのである。

よつてまず所論(一)について案ずるに、記録中の昭和四十六年十月二日開廷された公判に関する原審第六回公判調書によれば、被告人楠本正弘に対する道路交通法違反、業務上過失傷害被告事件につき、横浜地方裁判所第六刑事部第十二係の裁判官赤木薫は、被告人及び弁護人三野研太郎出頭し、検察官杉下弘之出席し、裁判所書記官高橋勇立会の上、判決の宣告をなしたことが認められる。而して、その法廷において、判決理由に関し明らかにされたことは、弁護人の所論によれば、弁護人の主張に対する判断の宣告として適法か否かの点は別として、「公訴事実全部をその取調べた証拠により有罪と認める」ということとその「罰条」並びに「公訴事実第二(原判示第二)の所為は刑法第三十七条第一項本文に該当するから無罪であるとの弁護人の主張はこれを排斥する」ということであることが窺知できる。而して、右弁護人の主張に対する判断につき、所論のような経緯があるとしても、右判断は判決宣告が終了した段階になされたものではなく、結局判決宣告の過程においてなされたものと認めるのが相当である。そうだとすれば、判決理由の告知がその要旨の告知である為言辞必ずしも満足すべきものではなかつたとしても、これにより、理由そのものは宣告されており、原判決には所論指摘の如き判断遺脱、即ち、訴訟手続に法令違反はない、と認めるのが相当である。(尚、刑事訴訟法第三百三十五条第二項の主張に対する判断遺脱は理由不備―絶対的控訴理由―に該当するものではなく、同法第三百七十九条に所謂訴訟手続に法令違反がある場合に該当するとされている。―最高裁判所昭和二六年(あ)第四一六七号、同二八年五月一二日第三小法廷判決参照)

次に所論(二)について案ずるに、刑事訴訟法第三百三十五条第二項所定の事実が主張されたとき、裁判所はこれに対してその当否の判断を示さなければならないが、判文上判断を示せば足りるのであつて、判断の基礎、例えば主張を認め得ない理由などまで説明する必要のないことは同条の解釈上明白である(大審院判決昭和四年四月三十日刑集第八巻二二二頁、広島高裁岡山支部判決昭和二十七年一月二十三日高等裁判所刑事判決特報二〇号一三四頁参照)。ところで、原判文並びに弁護人の所論(一)を合せ検討すると、原判決は、弁護人の主張に対して最終判断を示しているほか、その理由も最少限度ではあるが、これを示しており、右法条所定の要件はこれを充足していることが明らかである。而して、本件の場合、被告人の行為につき緊急避難の成立を認め難いこと、換言すれば、弁護人の右主張が理由ないことは、後記控訴趣意第二で判示のとおりである。さすれば所論は到底採用できない。

論旨はすべて理由がない。

控訴趣意第二(事実誤認の主張)並びに控訴趣意第三(法令適用の誤の主張)について。

所論は、(一)本件事故は、被告人が自車線を走行しているのに対向車が突然被告人車線に進入して来たので、被告人において、正面衝突による死傷事故を避けるため、ブレーキをかけ、且つ、左転把したことから惹起したのであつて、被告人については緊急避難行為としての要件を十分充足しているのである。然るに、原判決は対向車が道路中央に寄つたことは認めているが、被告人車の車線に進入したことを認めず、延いては緊急避難行為の成立を否定している。右は判決に影響を及ぼすべき重大な事実誤認である旨(控訴趣意第二及び同第三の4参照)並びに(二)原判決は被告人の遵守すべき業務上の注意義務として被告人に「直ちに停止する」義務、減速徐行の義務、「対向車との間隔をとる」義務の存在を判示しているが、事故当時の状況並びに道路交通法等に徴しても、被告人には判示の如き注意義務はない。原判決にはこの点において法令の適用を誤つた違法がある旨(控訴趣意第三―4を徐く―参照)主張する。

その一、所論(一)について。

第一、案ずるに、(証拠略)によれば、被告人は横浜市交通局に市営バスの運転者として勤務していたものであつて、原判示日時、原判示大型乗用自動車(以下、バスまたは被告人車と略称する)に約三十名の乗客を乗せて、梅ノ木交差点方面より中山町方面に向け運転し、原判示事故現場附近に差し蒐つたところ、前方一〇〇メートル附近―事故地点より前方四〇メートル附近に対向進行してくる小型トラツク(以下、対向車と略称する)を認めたので、バスを左側に寄せ、道路左端より五〇センチメートルの余裕をとつて進行したこと、被告人は右進行中進路右側で前記実況見分調書添付の見取図清水方入口(この間ガードレールは切れている)中山町方面寄り最初のガードレール附近に駐車中の大人用自転車一台を発見していたところ、被告人車が右清水方入口梅ノ木交差点方面寄り附近(以下、この地点をと略称する)に至つたとき、対向車が右自転車の右側を通りぬけるため、少し道路中央に寄つたので、対向車との擦れ違いに接触等の危険を感じ、左側に寄ろうとしてハンドルを左に切り、且つブレーキもかけたが、滑走して道路左側の電柱に衝突し、本件事故を惹起したこと及びと衝突地点までの距離は一五・二〇メートル、対向車が道路中央に寄つた際と対向車の距離は八・八〇メートルであることが認められる。

第二、よつて被告人の右行為が所論の如く緊急避難に該当するか否かについて検討するに、

(一) (証拠略)によれば、

(1)  現場附近の道路状況は、被告人車進行方向右側に道路端より一メートル隔てた地点にガードレールが設置されており、道路左側端とガードレールまでの道路幅員は五・三〇メートルで舗装されているが、道路左側端外は土であつて軟弱であること並びに右道路には中央線の標識の標示がないこと。

(2)  被告人運転の自動車は営業用大型乗用自動車(市営バス)であつて、その全幅は二・四八メートル、(長さ九・六六メートル)であり、対向車は被告人の供述によれば小型トラツク(トヨエース)であるから、その全幅は一・六九メートルであること。

(3)  前記車道幅員五・三〇メートルに中央線を想定するときは、片側車線は二・六五メートルとなること。

(4)  車両制限令(昭和三十六年七月十七日政令第二六〇号)第九条によれば、自動車運転者が歩道のない道路上で自動車を運転するときは、路端から〇・五メートル内側を走行しなければならないことになつており、本件においても、被告人車が道路左側端から〇・五メートルの余裕をとつて走行するときは、被告人車の占める幅(前記余裕距離を加えたもの)は左側端より二・九八メートルとなり、被告人車は想定された中央線―以下、中央線(想定)と略称する―より〇・三三メートル対向車線にはみ出すこと。

(5)  対向車トヨエースもガードレールより若干余裕をとつて走行する要があり、その距離を〇・五メートルとした場合、駐車の占める幅(前記余裕距離を加えたもの)は二・一九メートルであるから、対向車両と中央線(想定)との間隔は〇・四六メートルであること。

(6)  右状態で被告人車と対向車とが擦れ違う場合、その間には僅か一三センチメートルの余裕しかなく、僅かな震動、車両の傾斜によつても、両車が接触或いは衝突の危険性が大であること。

(7)  前記第一で認定の自転車は道路に平行に駐車していたものであつて、その最大幅部分はハンドルであるところ、この幅は自転車の通常規格に徴すれば〇・五メートル前後であること(自転車の置き方に関する被告人の供述は捜査段階(平行型)と公判段階(直角型)とでは異なつているが、後者は当審証人紺田政男の証言等に照らしにわかに措信できない)。

をそれぞれ認めることができる。

(二) ところで、自動車が対向走行する場合、それぞれ自己の車線内を走行し、対向車線内に進入しないことは、交通法規上基本的なルール(道路交通法第十七条第三項参照)であつて、本件道路のように中央線が明示されていない場合であつても、道路の中心を境としてそれぞれの車線はおのずから区分され、その区分に従つて走行すべきものである。そうであるとすれば、自動車の運転者は、対向車がある場合には、相互に対向車線内に進入しないよう運転する業務上の注意義務を負担していることは多言を要しない。而して、又、車両等の運転者が道路、交通及び当該車両等の状況に応じ、他人に危害を及ぼさない速度と方法で運転しなければならないことは、道路交通法第七十条の要請しているところであるから、運行する道路の幅員が狭少で、而も、対向運行する車両の双方又は一方が大型車であるとき、或いはその路上に障害物のあるときには、前記(一)の(6)、(7)認定のとおり、接触或いは衝突の危険性が極めて大であるから、双方の自動車の運転者に原判示の如き業務上の注意義務が課されることはこれ又当然である。本件においてこれを観るに、被告人車は本件の場合に限らず通常の場合でも中央線(想定)を越えて走行しているのであるから((一)の(4)参照)、対向車を認めた場合には、速に道路左側に寄つて自己の車線内に戻り(車道制限令は道路保全のため前記の如き規定をしているが、右は衝突等の危険を防止するため、必要に応じ、できる限り、道路端に寄ることまで禁止するものではない)、特に対向車との擦れ違い時にこれと接触しないように同車との間隔を保つと共に、状況によつては一時停止するか、又は減速、徐行し、以て万一に備えなければならないものである。然るに、被告人は一〇〇メートル前方に対向車を認めていながら、八・八〇メートルの至近距離に迫るまでこれらの義務、特に自己の車線内に戻る義務を尽していない。一方、対向車の運転者もこれ又本件道路上を対向走行する場合前記の如き業務上の注意義務を負担していることは、被告人と同断である。而して、その車両は通常の場合(一)の(5)で認定のとおり中央線(想定)を越えることはないのであるが、本件の場合はその進路上に大人用自転車が駐車しており、その擦れ違い時には中央線(想定)側に同線すれすれに寄る公算が大であるから((一)の(5)、(7)参照)、対向して来る被告人車に接近した地点で、急激に、進路を道路中央寄りに転ずるが如きことは、その交通状況等に徴し、到底安全運転の義務を尽したものとはいえない。

(三)  以上認定のとおりとすれば、本件事故の直接の原因となつた第一で認定の接触等の危険は被告人及び対向車の運転者双方の責に帰すべき事由によつて発生したものといわねばならない。即ち、被告人は勿論対向車の運転者において、若し対向走行時に遵守すべき前記業務上の注意義務を速に果しておれば、右接触等の危険は未然に防ぐことができたのであつて、このことは、被告人が対向車を発見したときその間の距離が一〇〇メートルあつて容易に自己車線内に戻り得たこと等に徴し、明白である。然りとすれば、右危難は被告人がその義務を懈怠したことによりみずから招いたものであつて―勿論対向車にも責任はあるが―これを社会通念上巳むを得ないものとしてその避難行為を是認することは相当でないといわねばならない(大審院判決、大正十三年十二月十二日、大審院刑事判例集三巻八六七頁以下参照)。

(四)  以上の次第であるから、原判決が被告人の行為につき緊急避難を認めなかつたのは相当であり、原判決には事実誤認はない。

その二、所論(二)について。

案ずるに、被告人に原判示業務上の注意義務あることは、所論(一)に関し第二の(二)で説示したとおり、特に本件道路の幅員その他の状況に照らし明らかであり、原判決には所論の如き法令適用の誤りはない。

論旨はすべて理由がない。

控訴趣意第四(量刑不当の主張)について。

所論に鑑み、記録を精査し、これに現われている本件業務上過失傷害事件の経緯、態様、罪質、就中、被告人が本件運行中示した路線バスの運転者として必ずしも適切でない運転態度、乗客多数を負傷せしめるに至つた過失の程度並びに結果の重大性、被告人の交通法規違反及び業務上過失傷害関係の前科歴並びに本件が酒酔い運転による行政処分として免許停止中であつたにも拘らず、之を秘し運転した案件であること等諸般の情状を考慮すれば、被告人の刑責は必ずしも軽くはないのであるが、一方、本件は前記認定の通り、対向車の運転者の過失も競合しているのであつて、被告人の一方的過失によるものではないこと並びに被害者らとは横浜市当局との間に示談が成立し、治療費並びに他に若干の金員が支払われていること、その他所論が指摘し、記録並びに当審事実取調の結果認め得る被告人に有利と思われる諸情状を併せ勘案するときは、本件には刑の執行猶予を相当とするまでの情状は存しないが、原判決の量刑は重きに過ぎて不当であると思われるので、原判決はこの点に於て破棄を免れず、論旨は理由がある。

よつて、刑事訴訟法第三百九十七条により原判決を破棄し、同法第四百条但書により、当裁判所に於て更に次の通り自判する。

当裁判所が認定した罪となるべき事実は、自転車の位置、衝突地点等を控訴趣意(第二)に対する判断第一、第二に於て認定のとおり補正するほか、原判決認定の(罪となるべき事実)のとおりであり、右事実を認定した証拠の標目は、当審に於て取調べたところの、(証拠略)を加える外、原判決掲記の(証拠の標目)のとおりであるから、いずれもこれを引用する。

法律に照すと、原判示第一の所為は道路交通法第六十四条、第百十八条第一項第一号、罰金等臨時措置法第二条(昭和四十七年法律第六十一号による改正前の法律による。以下同様)に、原判示第二の各所為は各刑法第二百十一条前段、罰金等臨時措置法第二条、第三条に該当するところ、原判示第二の乗客四名を負傷せしめた業務上過失傷害の罪は、一個の行為にして数個の罪名に触れる場合であるから、刑法第五十四条第一項前段、第十条により、犯情の最も重い池田実に対する罪の刑に従い処断することとし、所定刑中、右第一の罪につき懲役刑、第二の罪につき禁錮刑を選択し、以上は同法第四十五条前段の併合罪であるから重い第二の刑に同法第四十七条本文、但書、第十条を適用して法定の加重をした刑期範囲内で被告人を禁錮六月に処し、原審並びに当審に於ける訴訟費用は刑事訴訟法第百八十一条第一項但書を適用して、全部被告人に之を負担させないこととして、主文の通り判決する。

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例